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人生朝露

人生朝露

心理と物理の“対立する対”。

荘子です。
ユングと老荘思想の続き。

ユングが老荘思想に惹かれたのは、トルストイと同じで、
Arthur Schopenhauer(1788~1860)。
ショーペンハウアーの影響が大きかったと思われます。西洋人が『ヴェーダ』とか『ウパニシャッド』などの東洋思想を使っているわけですから、彼らにとっては衝撃だったでしょうね。西洋人の中に、東洋思想から西洋にないものを求めるという姿勢は絶えずあったわけです。おそらく、ユングは1910年代には『老子道徳経』を持っていたはずです。

参照:老子とトルストイ
http://plaza.rakuten.co.jp/poetarin/5072

例えば、
老子。
『谷神不死。是謂玄牝。玄牝之門、是謂天地根。緜緜若存、用之不勤。』(『老子』第六章)
→谷神は死せず。これを玄牝と言う。玄牝の門、これを天地の根源という。絶え間なく母は産み続けているかのようであるが、これを用いながら疲れることを知らない。

『知其雄,守其雌,為天下谿。為天下谿、常徳不離、復歸於嬰兒。知其白、守其黒、為天下式。』(『老子』第二十八章)
→その雄を知り、その雌を守れば天下の谷となる。天下の谷となれば、常なる徳が離れず、嬰児に帰る。その白を知り、その黒を守れば、天下の模範となる。

『道生一、一生二、二生三、三生萬物。萬物負陰而抱陽,沖氣以為和。』(『老子』第四十二章)
→道は一を生じ、一は二を生じ、二は三を生じ、三は万物を生じる。万物は陰を負い、陽を抱いて(並存しており)、沖氣を以って調和している。

ユングの提唱した「アニマ・アニムス」というのは、明らかに老子の影響が見られます。

参照:アニマとアニムス Anima,Animus
http://www.d4.dion.ne.jp/~yanag/anima.htm

ユングの弟子のデイヴィット・ローゼンが『ユングの生涯とタオ』で語っていますが、1916年にユングが自費出版した「死者への七つの語らい」は、『老子』の記述に酷似しています。

C.G.ユング
≪聞け。私は無から説き起こそう。無は充満と等しい。無限の中では、充満は無と同じだ。無は空であり充満である。無について、おまえたちは何とでも言うことができる。たとえば、それは白いとか黒いとか、それは存在しないとか存在するとか。無限にして不滅なるものは、何らの特性も持たない。つまり、それはすべての特性をもっているからである。
 この無あるいは充満を、われわれは「プレロマ」と名づける。その中で思考と存在は停止する。不滅にして無限なるものは、何らの特性をもたないからである。その中には何ものも存在しない。もし存在すれば、それはプレロマから区別され、それをプレロマと異なる何ものかとなさしめる特性をもつことになるからである。
 プレロマの中には何ものもなく、またすべてのものがある。プレロマについて考えることは、すなわち、自己の解体であり、益するところはない。
 「クレアツール」はプレロマの中にはなく、それ自身のなかにある。プレロマはクレアツールの始めであり、終わりである。プレロマは、日光が空中のいずこも満たしているように、クレアツールに浸透していく。プレロマは到るところに浸透するが、クレアツールはそれを分有するものではない。それは全くの透明体がそれを通過する光によって、それ自身は明るくなるわけでも、暗くなるわけでもないのと同様である。≫(C.G.ユング 「死者への七つの語らい」 ユング自伝より)

≪お前たちは尋ねる。自分自身を区別しないとどこがいけないのか、と。
 もし、われわれが区別しないと、われわれの本質を超え、クレアツールを超えてしまうことになり、プレロマの他の性質である非区別性の中におちこんでしまうことになる。われわれはプレロマそれ自身の中におちこみ、クレアツールであることをやめる。われわれは無の中に溶け去ってしまう。
 これはクレアツールの死である。かくて、われわれは区別しない程度に応じて死んでいる。従って、クレアツールの自然の志向は区別すること、原初的で危険な一様性への戦い、へと向けられる。これは「個性化の原理」(PRINCIPIUM INDIVIDUATIONIS)と名付けられる。この原理はクレアツールの本質である。この点から、不明瞭さや、区別しないことが、なぜクレアツールにとって大きい危険であるかが解るであろう。
 かくて、われわれはプレロマの特性を区別しなければならない。その特性は次のような「対立の組」である。
活動と停止
充満と空
生と死
異と同
明と暗
熱さと冷さ
エネルギーと物質
時間と空間
善と悪
美と醜
一と多
など
これらの対立の組はプレロマの特性であり、それは互いに相殺されている故に存在しないものである。≫(同上)

老子。
『天下皆知美之為美、斯惡已。皆知善之為善、斯不善已。故有無相生、難易相成、長短相較、高下相傾、音聲相和、前後相隨。』(『老子』第二章)
→天下の人は皆、世間の美を美としているだけで、これは悪であるのみである。世間の善を善としているだけで、善たる姿勢ではない。有(という概念)と無(という概念)は相生じており、難しいと易しいは相成っており、長いと短いは相較べるものであり、高いと低い、音と声、前と後も相対する(相対的な)関係である。

『道沖而用之或不盈。淵兮似萬物之宗。挫其鋭、解其紛、和其光、同其塵。湛兮似或存。吾不知誰之子、象帝之先。』(『老子』第四章)
→道は虚の器であり、用いても満たされることはなく、底知れぬ淵のような万物の源のようなものだ。鋭さは挫かれ、紛らいは解かれ、その光を和らげ、塵と同じくする。奥底で何かが存しているようだ。私はそれが何によって生じたか知る由もないが、万物が(天帝から)象られる前の存在であろう。

Zhuangzi
『物無非彼、物無非是。自彼則不見、自知則知之。故曰、彼出於是、是亦因彼、彼是方生之説也。雖然方生方死、方死方生。方可方不可、方不可方、可因是因非、因非因是亦彼也。 是以 聖人不由,而照之于天,亦因是也。彼亦是也、彼亦一是非、此亦一是非、果且有彼是乎哉、果且無彼是乎哉、彼是莫得其偶、謂之道枢、枢始得其環中、以応無窮、是亦一無窮、非亦一無窮也。故曰「若以明」。』(『荘子』斉物論 第二)
→物に「彼(あれ)」でないものはなく、「是(これ)」でないものもない。「彼(あれ)」であるとすると見えないものも「是(これ)」であるとすると見えてくる。『「彼」という概念は是という概念から生じて、是という概念も彼という概念から生じ、(すなわち「あれ」と「これ」、「我」と「彼」という概念は、相対化された中で)双方が並存している』と。これを「方正の説」という。しかし、あらゆる視点から見渡すと、生は死であり、死は生である。可は不可であり、不可は可である。肯定に因ることは否定に因ることであり、否定に因ることは肯定に因ることである。聖人と呼ばれる人は、人知によらず天に照らして由らしめる。彼もまた是であり、是もまた彼である。彼に一是非、是に一是非ある。果たして、是と彼に絶対的な区別など可能なのであろうか?是と彼を遇することのできない極限ものを「道枢」という(枢とは、扉の回転の真ん中にある一本の柱のこと)。その環の中にあって、初めて無限の世界に応じることができる。是もまた一無窮、非もまた一無窮。故に「明によるに若くはない」というのだ。

ウォルフガング・パウリ(1900~1958)
≪無意識の心理学から最近C.G.ユングは古い中世科学的原典の心理学的内容を掘り起こし、我々の時代を開拓することまで到達した。私はそれに関して、特に中世科学的な「対立する対」の役割について、二、三価値ある材料を世に出したいと希望する。(中略)ここでわれわれの時代の自然科学に対して本質的な問題が持ち上がる。「われわれは昔の心理学的な中世科学のの一体化の夢を、より高い平面のうえで(物質的及び心理学的名自然科学的理解に関する一体化の概念的基礎を創造して)実現できるであろうか?」われわれは答えをまだ知らない。たくさんの生物学的基礎的疑問、特に因果律と合目的性の関係およびそれとの心理学的な関連もまた、私の考えでは、まだ実際に満足すべき解答や解明はなされていない。
 今日の量子物理学はニールス・ボーアの表現に従えば、「原子的な物体の場合には、相補的な“対立する対”に突き当たるのである。」。粒子と波、位置と運動量のようなものである。そうして観測者が“たがいに排他的な実験装置の中からどれかを選択する自由度”を計算に入れなければならない。このことが(あらかじめ計算できないような方法で)自然の進行を阻害してしまう。しかしながら、いったん実験装置を選んでしまえば(現代の物理学の観測者の場合にも)“観測の客観的な結果は観測者の影響を免れるのである”。≫(ウォルフガング・パウリ『科学と西欧的思考』より)

九鬼周造さんが『偶然性の問題』を発表した二年後の1937年、
ニールス・ボーア ボーアの勲章
ニールス・ボーアは、日本にやってきて、その後上海に渡りました。ボーアは上海で太極図を見て、いたく気に入って家紋にしたんです。

“CONTRARIA SUNT COMPLEMENTA”(対立するものは相補的である)と、書いてあるそうです。

参照:共時性と老荘思想。
http://plaza.rakuten.co.jp/poetarin/5093/

Pakua。
『中国人は、生あるものに内在する逆説性と両極性を認め、損ないはしなかった。対立しあうものが常に均衡を保ち続けてきたのだ。高い文明のしるしである。一面性というのは、勢いを与えはするが、野蛮のしるしである。』(C.G.ユング)

≪人の域に留めておいたエヴァが本来の姿を取り戻していく。人のかけた呪縛を解いて、人を超えた、神に近い存在へと変わっていく。天と地と万物を紡ぎ、相補性の巨大なうねりの中で、自らをエネルギーの凝縮体に変身させているんだわ。≫(『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:破』)

参照:翼をください
http://www.youtube.com/watch?v=fEixSQBOyp0&feature=related
庵野カントクは昔っからユングです。

・・・要は、和光同塵ってことですよ。光と塵ね。

今日はこの辺で。


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